あの湖とユウ



「幸せの化身みたいな子やったんよ。俺の身体はただのちいさい細胞の塊でできてるけど、あの子はちいさな幸せの集合体で、それがたまたま人の形になっただけみたいな。もちろん出会った時にはもう21歳やったから、子っていうのはおかしいかもやけど、確かにあの子はあの子。たぶん、それは今も」


ここまで話しておきながら、僕は炭酸の抜けたメロンソーダを飲んでしまって、もう続きを話す気が失せていた。まつ毛を触っている菜月と目が合い、急に間が怖くなって、意味ありげに菜月の手に触れて小指を撫でる。

「お腹空いとる?」

「それなり」

菜月は僕の指を捕まえる。ただ漠然と仕方ないと思った。脈絡もなく「仕方ないな」と呟きたくなった。


二列シートの電車の中、僕が窓側に、菜月が通路側に座っている。僕たちは松江駅に向かっている。宍道湖という湖を見るついでに一泊する予定である。しかし菜月は母親に、泊まりでユニバに行くと嘘をついたらしい。どうしてそんな嘘をつくのかと若干狼狽しながら聞くと「まだ嘘じゃない。私を嘘つきにしたくないなら、今からユニバに連れていけば」と目線を合わせずに答えた。僕は菜月のこういうところが少し苦手だ。砂を噛んだ感じがする。あらかじめ準備していた、いつか言おうと企んでいたセリフを口にするところが。まんまと利用された気になるし、自分にでろでろに酔っている匂いも鼻につくが、菜月の鎖骨は本当に綺麗だから、すべて愛せてしまう。


電車はあっけなく松江駅に着いた。結局車内ではお互い常に一定の熱量で、昔の恋人の話をしたり、菜月のバイト先にほくろの多い人がやってきた話をしたくらいだった。


「それでさ、そのほくろの人が伊勢のお土産でエビの煎餅を買ってきてくれたん。それでさ、みんなに配ってたんだけど、私だけ貰えなかったの。なんで?エビアレルギーだと思われたのかな」

まだ菜月は勝手に話して、勝手に笑っている。駅を出ると熱気が待ち構えていて、僕の鼻腔やらを全て塞いでしまった。


僕たちは予約した安いホテルに荷物を預け、宍道湖に向けて歩き出した。日差しは熱を超え、電磁波みたいに僕の体内を焼く。ビジネスホテルが並ぶ道、セブンイレブンの駐車場では子どもが泣いている。やかましいバスの音と蝉、僕は蝉が嫌いだ。うるさいからだ。あんな小さい物体からあんな大きい音が出るのが心底気持ち悪い。


「ユウ」

菜月に名前を呼ばれ、少しだけ涼しくなる。菜月は僕と目があったのを確認すると、またすぐに前を向いた。これほど近くにいるのにも関わらず、定期的に生存を確認される。僕はすぐに菜月のしわくちゃな肘めがけて進んだ。

「ぼうしを持ってくりゃよかった。菜月、持ってきた?菜月」

その他にも僕は一生懸命話したが、菜月に届く前に日差しに焼かれて消えた。僕はいろいろ諦めて、透けた菜月の耳の毛を見ながら歩いた。


宍道湖は予想通り綺麗だった。水面は一枚の透明な布として揺れていた。ベンチを見つけた菜月は、まるでそこが目的地であったかのような勢いで座り、僕を横に座らせ、背伸び、深呼吸、サンダルを脱いで、写真を縦と横、それぞれ一枚ずつ撮って僕の耳を噛んだ。前から風が吹き、菜月の唾液がついている部分だけがはっきりわかる。


僕は初めて宍道湖を見た時のことを思い出していた。幸せの化身こと、あの子と見た。場所は違えど同じようにベンチに座り、ぼんやり湖を眺めていた。どんな会話をしたかはほとんど覚えていないけれど、あの子の真っ白なワンピースの揺れ方が、波の揺れ方と同調していたことだけ明確に覚えている。僕はいつもの癖で、抜け落ちた会話を補い始める。


「ユウ君の言うことは何も分からないけど、それでも全部好きだよ」

あの子は決してそんなこと言わなかったが、頭の中であの子を喋らせる時は必ずこのセリフを言わせてしまう。それどころか、あの子は僕の頭の中でこのセリフだけを繰り返し呟いている。あの極めて透明度の高い水晶のような顔を微笑みに変えて。

そのセリフに対して僕は僕に「君はやさしいな」と返事をさせている。実際、僕はあの子に何度もこのセリフを言っていた。生活用品を買ってくれる時や、デートに寝坊した僕を最寄りまで迎えにきた時、衰弱する野良猫に泣いていた時も、僕はあの子に「君はやさしいな」と言った。けれどそのどれもが的を得ていなくて、どこか落胆の色味すら含んでいた。過去の脱色と脚色を繰り返す中で、僕があの子に求めていた本当のやさしさを今になって理解してしまう。


「ユウ」

再び菜月に生存確認された僕は、妙に安心して首を捻る。

「何考えてたの」

菜月は過度な期待を含んだ目で僕を覗き込む。僕はしばらく黙って、また菜月の小指を撫でた。

「やっぱり海より湖の方が好きって考えてた」

菜月は何も言わず、続きを期待する。


「海は大きすぎるんよ。輪郭がないものは苦手。この間、美術館に行った時も思った。俺は絵が好きというより額縁が好きなんだって」

僕はそう言いながら、菜月の小指の骨をなぞる自分の指を見ていた。菜月は満足げに僕の回答をラッピングして「そう」とだけ呟く。菜月といると自分がいくらか安っぽく思える。

「菜月はどっちが好き?」

「川」

したり顔の菜月と目が合い、ますます安っぽくなる。けれどこうやって菜月と話す度に、着実に理解されているという実感が募っていく。理解されるというのは案外、安っぽくなることなのだろうか。


「そろそろ行こう。晩飯は何がいい」

僕が今日一番の声を出して立ち上がると、菜月は前屈みでサンダルを履きながら、晩飯の候補を言い連ね始めた。宍道湖を揺らす日光が勘違いしたのか、菜月の鎖骨にも注ぎ込まれ、噛み付くというか、飲み干したくなる。

「でもまずはホテル戻ろう」

きっとシャワーを浴びたいのだろう。菜月はベンチから立ち上がった勢いのまま、僕を追い抜いて歩き出した。僕もそれに合わせて三歩進んだが、安っぽく振り返ってしまう。

車の音、蝉の騒音、宍道湖、日光、風の順にひとつずつ除外されていき、さっきまで座っていたベンチにだけ焦点が合っていく。僕が揺れているのか、風景が揺れているのかの区別も曖昧になり始めた頃。

「菜月」

名前を呼んだのは僕だった。風から順に世界を取り戻しながら、僕は菜月を追いかけた。